物、されど物、、、から現実創造

この地から引越すにあたり、引越し業者の見積もりを取っている。

 

なぜか、引越し会社により荷物を送る料金がまったく違う。

 

この仕組みがよくわからない。

 

安いからと言って、大切な荷物を乱暴に扱われても嫌だし、高額の料金を支払うほどの荷物ではない。

 

 

私は今まで海外や国内での引越しを何回も経験してきた。

 

特に海外に家族分の荷物を送った時、または、帰国した時、どれだけの荷物を処分してきたことか。

 

始めに住んだ国、オランダでは部屋はとても広く、そこから、ヨーロッパに3カ国住み、13年の間に家具を買ったり食器を買ったりした。

 

しかし、日本に帰国する時、家族はバラバラになっていたのもあり、持って帰る荷物をたくさん処分した。

 

引越しの都度、物って一体なんだろう?と思う。

 

物の価値って、場所が変わり時が経つと、何の意味もなくなる。

 

これには心に大きな影響がある。

 

物の価値を心が決めているのだ。

 

 

 

もちろん、何かを買った時はその物が手に入ってとてもうれしいものだ。

 

お洋服も同じで、その時、その時、自分にとって旬な服を買い、思い切り楽しむ。

しかし、それもいつの間にか古くなり処分することになる。

 

古くなった、新鮮味を感じないと心が思うからだ。

 

 

今から15年前、思い切り石にハマっていた。

 

一生、私が作った「石のピアス」をつけて生きていくなんて粋がっていたのに、すっかり石を手放した。

 

あの執着のすごいこと、いろいろな石をたくさん買った。

 

そして、人にたくさん作って売って、楽しみまくった。

 

しかし、いつの日かその情熱がなくなってしまった。

 

 

私の場合、常に生き方や場所が変化するので、ハマるものが変わる。

 

住む場所も変わるし、やることも変わる。

 

これからの私は新しいプロジェクトのためにこのコンフォートゾーンから移動することになっている。

 

この11年間にためた物を処分している。

 

こんな時、毎回そうだが、私の手元に残るのは大したことのない物が残る。

 

書類とかいつも使っていた少ない食器と、今旬の服だ。

 

なぜか、高いものほど手放したくなってしまう。

 

私の場合、特にそのものに重さやひっかかりがあると手放したくなる。

 

 

 

物って何だろう?

まして弟や父のように亡くなってしまうと、その人の持ち物は他の人にはもっと意味のない物になる。

 

私が残せるのはブログなのかなあ。

 

つまり、私がどんなことを考え、どのように生きていたか?それを残したい。

 

 

しかしながら、唯一、物で手放さないものは大きなアメジストだ。

 

名前をキサロスと言う。

 

25年以上の友である。

 

彼にはたくさん助けられた。

(もうただの石ではなく、人になっている)

 

私が亡き後、彼キサロスはまた誰かのところに行くだろう。

 

彼は私の記憶を持ち、また私の前の人の記憶を思っている。

 

これからも地球に生き続け、地球とと共に永遠に生きていく。

 

なんというスケールの大きな話だ。

 

キサロスは土にうもっても決して死なない。

 

彼は地球そのもの。

 

はて?そうなら、私たち人間は・・・地球に属するのだろうか?

 

今はそうでも魂があるとしたら、どこに転生していくのだろうか?

 

…とロマンティクに考えてしまう。

 

そう考えてしまう?

つまり、これは思考の世界が作っている私の現実創造の世界だ。

 

 

♥現実創造?

この思考の世界・マトリックスの世界は幻想であるといわれている。

この目の前の現実をあたかもリアルに感じている私たちだが、、、少し物事をずらして見てみると、

そのリアリティーはどこか嘘っぽく見える。

アセンションの今、この嘘っぽさがどんどん見えてくる。

私のリアルワールドが崩れているのだ。

私が考えた世界の中で、苦しみながらもがきながら、、、なんとか物事をずらして見てみると、違うリアリティが見える。

う~んせっかくなら、ホラー映画の中で苦しまず、楽園で楽しみたいな。

そうだ、いろいろん角度から現実を創造し見てみることにしよう。

 

それにしても、高~い引越し料金。。。

どうやってここから脱出していくのだろうか?

できれば、風の時代に乗り、すみやかに穏やかに軽やかに行きたい。

そうか、これも私の創造次第となるのだ。