これは私の心の底の底にあったものだった。
この否定的な想いは幼い頃からあったし、集合意識の中にもあるものだと思う。
中学生の時、学校帰りは自分の家に帰りたくないといつも思っていた。
通学路にある運河の橋から飛び込んだら、どんなに楽なことだろうかと何度も思ってた。
家族にしつこく否定され続けると、いくらがんばりやの私でも萎えてきて、最後には結局自分がすべて悪いんだと自分を責めていた。
こういう傾向は、おそらく、私の先祖の女たちの中にもあったのだろう。
女の価値が男より低い時代が長く続いてきた。
女は子どもを産むだけの性的な存在であった。
今思えば、母親は女の私を否定することで、自分を慰めていたのだとわかる。
母親は義祖母にまともに何もできない女だと馬鹿にされ罵倒され続けていたからだ。
大人たちは自分の劣等感を家族中でより一番弱い立場のものにその不満をぶつける。
学校のいじめの構造と同じである。
愚かな親は自分の子どもだからいいんだと、正々堂々とこれをやっているのだ。
世の中に自分より上か下かという差別意識がある限り、このいじめはなくならない。
子どもより自分が上と思っている親、部下より自分が上だと思っている上司は平気でいじめることができる。
困ったことに、それがいじめであることをわかっていない。
私の場合、人に嫉妬を受けたことで、女の価値の問題に長く関わってきた。
クライアントを通しても、自分を慰めるために自分より立場の弱い人(子ども)や優しい人を貶めるという構図を何度も見てきた。
男より女は価値がないと本気で思っている女性は他の女性を貶める。
また、女として自身のない人は自分の娘にでも嫉妬してしまう。
これは、見えないだけにかなり残酷に人(子ども)の心を傷つける。
母親は私の成功のすべてにあまり?喜ぶことがなかった。
母親がそんなことはないよと否定したとしても、子どもはその時、感じたことは忘れない。
当時は、褒められないのは自分の努力が足りないからだろうとさえ思っていた。
私は学校で兄弟よりうまくできてしまうために、特に女である母親や義祖母は私の兄弟を溺愛していたので、そのことについて私はよく思われていなかった。
彼女たちの私への不満と嫉妬をを受けて育ったことで、自分を守るために、社会でも自分をあまり成功させないようにしてきた。
なるべく目立たないようにしてきたのだ。
もっと言えば、皮肉であるが、どこかで自分が失敗するようにふるまってもいた。
私の場合、この度の病も同じような構図があることに気づいた。
以前にも書いたが、それは「母親への復讐心」の反映でもある。
私の病は自殺してしまう人と同じように、親や周りの人への復讐でもある。
自殺を実行してしまう人としない人の違いは何だろう?
最後は一人一人の中にある自分とのあり方なのだと思う。
それは、何を置いても自分より偉大な何か(神)を信じているかいないかではないだろうか。
人の心が限界までいった時、そこに何かの救いがないと人は死を選ぶかもしれない。
私は心底、この自然界の偉大さを感じ入っている。
それを信じている。
私は、今一度、この深い憎しみ=自分なんてダメだという自分を否定する想いを再度、感じながらもうここで、人の嫉妬との闘いを終わりにしたいと思う。
そして、集合意識の中にある、このネガティブなエネルギーに影響されのるをやめる。
(低次の波動に合わせないということ)
自分はこの広大な自然界の一存在だ。
自分はこれでいい。
好きに生きていい。
自分を肯定する。
親だからと人の人生の責任まで取らなくていい。
人の人生はその人の問題である。
自分には限界がある。
自分の人生をまっとうしたらそれで大満足だ。
それらができなくても、自分を肯定できなかった自分に気づくだけでいい。
♥人がこの人より上だ下だとやっている限り、つまり、人の目線が他人軸である限り、嫉妬はなくならないし、それによる他人への責任転嫁やいじめは決してなくならない。
今起こっている戦争というものが・・・それを物語っている。
これに人類はいつ目覚めるのだろうか???
いいえ、そんなことより、すべては自分からだった。