何かのネットの記事で、引きこもりの50代の兄が餓死しているのを弟が見つけたという話を読んだ。
この家族はまじめにがんばってなんとかやってきたけれど、それでも、生きにくい社会にこの兄は復帰することができなかった。
両親があいついで先に死に、こもりきりの兄と弟は疎遠になり、残された兄は最期まで両親が残したお金でなんとか生きた。
この家族はまじめに生きてきたのに・・・報われなかった、そのことに心が痛む。
しかし、この記事の弟さんの話の中に、
(私の要約である)~それでも、兄は最期まで自死することなく生き抜いたということ、遺体のそばにはなんと英会話の本があり夢をあきらめていなかったと、つまり、最期まで人生をあきらめていなかった~とあり、それが救いだというようなことが書かれていた。
世の中には、なかなか社会に復帰できず、まじめにひっそりと暮らしてなんとか耐えて生きている人がいる。
今の私もそれに近いかもしれないが、彼らを不幸だ、かわいそうだということは誰にもわからない。
社会で成功していて何でも持っている人が幸福だとは限らない。
ひとりでいても人に気を使わないでいられるから気楽かもしれない。
案外、自分の楽しみ方を知っているのかもしれない。
私のように、自分(魂)とじっくりと向き合う時間が持てるかもしれない。
私は人のあり方を今まで探求してきて、他の人のことは本当にはわかないものだということ。
魂のあり方は人それぞれである。
人は魂が望む人生を歩んでいる。
そこに、深い意味がある。
魂が何かを体験したいことや知りたいことがあるから人は生きている。
私の魂は、母と娘の確執や嫉妬や子育てをする親より本能的にひとりの女・ひとりの男になってしまう無責任さを、怒り・憎しみとして体験してきた。
私自身が娘となり、母親となり、その相談者となって。
人の未熟さを知りたかった。
そのことで、自分の中に多くの怒りと憎しみを包含していた。
中でも、憎しみを感じることにかなりの抵抗をしてきた。
私は悪い人であってはいけない、
人を憎んではいけない、
私は愛の人になるのだから、という宗教的にも、スピリチュアル的にも、いい人にならないといけないと思いこんでいた。
私の過去生においても、宗教的な自己犠牲や生贄的なあり方をしていた時代が長くあった。
しかし、その憎しみのエネルギーからか、病になってしまったことで、いよいよこの負の想いを解放することになった。
ネガティブな思い込みや刷り込みはなかなか気づかないもの。
また、このネガティブな想いに気づいてはいたが、これをどう許していいかわからなかった。
ところが、やっとその負の想いを解放する方法が体感的にわかったのだ。
人を殺してやりたいほどの憎しみを感じる自分を受け入れることができた。
なんだこんなことだったのか!とあまりにも簡単なことだった。
病後、もう我慢しないことにしたからだろうか。私の本音である憎しみは浮上していたので、難しくはなかった。
今年は自分の最後の仮面を脱ぐ年になった。
もともと本音を黙っていられないたちであるが。人への本音中の本音はできるだけ黙ってきた。
私の本音はかなり強烈に的を突くので嫌われることが多く、そのし返しを恐れ、本音中の本音はできるだけやんわりとごまかすか、ズバッと言うことを避けるようになった。
これからはできだけ嫌われてもいいから自己開示していこうと思っている。
さて、この引きこもりの男性はよく頑張って生きて抜いたと思う。
たとえ力なく餓死だったとしてもだ。
これをどうこう言う立場にはないが、
ただ私がここから学べるのは記事の中に、彼は自分の気持ちを親や他人に向かって言えなかったとあった。
そうなのだ、日本人は周りに自分を我慢させるところがある。
それが美徳なのか、みな我慢しているから、みなそうしているから・・・というような風潮があるように思う。
風の時代に入った今、自分を発芽させないで我慢したまま死んでいくのはあまりにももったいない。
この記事がそれを教えてくれているように思う。
我慢することは、ある種の「自己虐待」だと思っている。
自分がやりたいことや言いたいことを我慢して、結果、周りの誰が幸せになるのだろうか?
私は自分への虐待をやめた。
そして、今、少しずつ自己を解放している。
中には、そんな私をを嫌な奴と思うかもしれない。
それでも、私のブログを読んでくださる方もいる。(なんと幸せなことだろうか)
私のようにこの世や人に絶望してきた人に言いたい、ひきこもってもいいから、目の前の小さな小さな幸せを喜ぶ(小さな希望を持つ)ことから始めてほしい。
そして、小さい声でもいいから自分の本音の声を聞く(気づく)・・・そこから、ゆっくりとスタートして行けばいい。