地の時代、人は自分を生きるより役割を大切にしてきた。
個としての自分であるより、公に向けての役割をこなしてきたといえる。
例えば、会社員として、経営者として、父親・母親として、夫・妻として、息子・娘として、兄弟姉妹として、医者・看護婦として、教師・生徒として、弁護士として、警察官として、僧侶司祭として、上司部下として、先輩後輩として、会社役員としてetc.
あるいは、物わかりの良い人や感じの良い人として、何でも知っている人として、頼りになる人として、成功している人としてetc.
これらは素の自分というより、役割としての自分として頑張ってきている。
役割は外の世界や世間体に対して作られている。
個としてではなく、何かの責任を負い役割を演じている。
警察官は善良な人で信頼できる人、絶対に犯罪なんて犯さない。
医者だから、たくさん勉強して何でも知っている頭のいい人、よって、病名を間違って診断することはない。
・・・と思いたいが、その役割を取っ払った時、その人はどういう人に見えるのだろうか?
役割を脱いで、素の自分になるとは?
警察官や婦人警官が制服を抜いだ時。ただの1人の男や女になる。
制服を着ていた時のような威厳や清潔さはなく、むしろ生々しい人に見えるかもしれない。
医者や看護婦が白衣を脱いだ時も同じである。
ただの1人の男や女になる。
たとえ医者の素行が悪くても、役割や制服によりそれをごまかせるかもしれない。
苦しんでいる患者は医者を優秀な人だと思いたい。
また、役割を長くやっていて、自分も普通の人間だ意識していない場合、仕事柄他人への思いやりが欠けているかもしれない。
実際に、私は少しだけ教師を経験したが、学校を卒業し若くしてすぐに人から「先生」と言われたことから、未熟な自分はどこかで自分を偉いと勘違いしてしまうかも?と危機感を持った。
素の自分を意識していないと、役割という仮面ははがせにくくなるかもしれない。
もし、学校で長く教師を続けていたら、私は教師という仮面が張りついてしまっていたのではないか?と思っている。
あまりにそれがいたについてしまい、それが仮面あるとさえ気づかないかもしれない。
もし、そのまま退職して老人になり何もできなくなった時、自分を用無しのように感じるだろう。
★さて、社会において自分の役割がなくなり、自分が素になった時、あなたはどうなるか?
今まで懸命に役割を生きて、その役目が終わり素の自分に戻れないなら、あなたは喪失感に苛まれるかもしれない。
♥私の体験
素の自分に戻った時、そこからが人生の本番がスタートするということだ。
女性は男性に比べて、社会的な役割をあまり重んじない。
しかし、男性と同じく女性にとっても、親、夫・妻、息子・娘、兄弟姉妹であることは大事な役割である。
私は教師や人生のであるより、むしろ、身内や他人の面倒見る良い人、立派な人、思いやりのあるお母さんであろうとし続けてきた。
おそらく4歳くらいから昨年までやってきたと思う。
これをやめるまでなかなかのプロセスがあった。
まずは、母と私について、
粘着的で共依存の母と私、母親みたいなおせっかいの私からの脱却は、なかなか大変であった。
共依存のことは良くわかっていたので、本当のいろいろなことをやってみた。
昨年まで、さんざん自分と母親を責めてきたが、今はもはや自分だけの問題だと思っている。
そして、母や実家はかつで一緒に居たかもしれない遠い親戚のように感じている。
今は実家に行くつもりも予定もない。
かつての怒りはあるかもしれないが、かといって、今さら怒るのは疲れるだけでほとほと飽きている。
もしあなたが母娘(息子)の関係で悩んでいるなら、本当にご苦労様でお疲れ様であり、完璧に平和を取り戻すことは難しいことだ思うが、私は心より共感したい。
次は、娘たちと私について
長い間超接近してきた娘たちに対して、きっちりと離れることができた。
本当に今まで彼女たちには迷惑なことだったかもしれないが、思い切りぶつかってきたことで、思い残すことややり残すことは何もない。
気づくと、彼女たちはものすごく立派で安心できる人になっていた。
今は、娘たちは一人の魂存在として見ている。
そして、彼女たちとの思い出は過去のもので、素晴らしい体験をさせてくれた恩人くらいに思っている。
こうして、私は母親の・・・娘という役割をやめ、
娘の・・・母親という役割やめた。
ここまで来るプロセスも面白い過程を踏んできたので、これについては聞かれれば何度も話してみたい。
そうだ!今思い出しだことがある、それは今でも忘れることはない、当時オランダに家族で住んでいた長女10歳の時、私に言い放った忘れらない言葉だ。
「ママ、(私への)転ばぬ先の杖は・・・利かないということよ!」~と言ったのだ。
これが、現在40歳も過ぎた長女の言葉が、今ほど刺さることはない・・・う~~~っつと。