地の時代における過去生も含めた長い私の歴史の中で自己犠牲して生きていた時代が続いてきた。
しかも無意識であるが自分を虐待したり自分を卑下したりしてきた。
他人の犠牲になることがさも良いことのように、
他人の人生なのに他人の責任を取ることが、さも美しく正義のように思っていたのかもしれない。
それが風の時代と共にこのあり方が私の中で終わった。
あまりに長い間、この最下層にいる奴隷のような自分を生き続けてきた。
そして、自分を奴隷解放することに罪悪感さえ感じていた。
私が悪い・・・というこの「罪悪感」こそ、
この地の時代の上下意識を作ってきたのだ。
無意識であるが、自分をこの次元に貶めていた。
なぜか?
それは、自分が上下意識や権力社会の仕組みを深く知りたい、学びたいと思った?からとしか言いようがない。
私は男尊女卑意識であり、他人家族の家に生まれ、
幼い頃からすべてはお前が悪いと言われ育ち、それを自分のせいだと思い込み、何か起こるたびに自分を責めるということを繰り返してきた。
私は言葉の虐待や体罰を受けて育ち、それを自分の力ではどうにもできず、悲しくて苦しくて夜眠れないくらいだった。
(たとえば、4歳の時、度重なる義祖母の執拗な言葉と身体への暴力から、夜安心して夜眠れなくなり、当時、今は亡き、赤ちゃんだった弟がすやすやと安心して眠っているのを見て羨ましいと思い、思わずその弟の手を握って眠ったことを、今でもはっきりと覚えている。その時私は姉なのに自分のふがいなさを感じた)
そういうことが続いても、勝気な私は持ち前の強さで悲しみを抑え込み、できるだけ明るく振舞うようにしてきた。
25歳で結婚する頃には、自分の心に抑え込んだものが嵐となりどうにもならなくなった。
私の子ども時代を繰り返したくないと、長女を産んでからあらゆる生き方や人生を探し、当時スピリチュアル本で大人気になったシャーリーマクレーンの本をはじめバシャールなどスピリチュアルワールドに傾倒していった。
その後、信じられないような(神の導きにより)いろいろな出会いがあり、今から30年以上も前にヨーロッパで精神療法を受けたりたくさんのスピリチュアルのコースを受けることができた。
まあ、そんなこんなで、スピリチュアルどっぷりになり、1999年(13年後)に日本に帰り、そこから離婚し仕事へと進んだ。
ここまで、何を学んできたかと言えば、
主に、上下関係で作られている権力社会から私に刷り込まれてきた意識の解放、
私の家系にある傷つきすぎている女性としての私の癒しと権利の復活である。
しかし、それにかなりの時間をかけても奴隷意識からなかなか抜け出せずにいた。
しかも、女性が女性に嫉妬し女性の足を引っ張るのを見たり体験することが一番辛かった。
・・・そして、時代はやっと風の時代に入った。
もう人類は上下の関係でなく、人それぞれでいいというところまで来たのだ。
つまり、なにかを誰かをコントロールしていくことはしない世界になった。
それなのに、反面、時代はデジタル化進み、人の情報が管理されていく方向に進んでいる。
ひとりひとりの細かい情報が管理されていくような時代になっている。
そうだ、風の時代に生きることを選んでいる人は、
他人に介入はしない。
まして、人のマネをしない。
風の時代の人は他人のマネができない。
ある意味、風の時代に生きる人は、今までの時代では変人・異端児なのだ。
今、スピリチュアルの話をする人を観察していて、
同じスピリチュアルを話す人でも、スピリチュアルもどきの人とスピリチュアルを本気で生きる人は違うと思っている。
なんちゃってスピリチュアルの人やスピリチュアルもどきの人は、自分の人生を通していない。
どこか他人事のようで、きれいに見せているようだ。
本当のことを人に見せていないために、その人の言葉がハートや魂に突き刺さってこない。
スピリチュアルに本気な人は命がけであると言える。
怒りにまみれで苦しんできている。
この次元ではうまくやれない。
純粋だからうまく生きられないのだ。
この3次元のどろどろとしている闇の部分を味わい、酸いも甘いも味わった人だけがパラレルワールドに移行していける。
きれいごとだけがあるのは3次元ではない。
人の嫉妬・醜さ・怒り・憎しみ・・・それらをしっかりと味わい、人に好かれなくてもいいから自分を貶めてくる人にNOと言わなくてもいけない。
人に弱みを見せていい。
それができる人は本物だと思っている。
いい人のふりをいくらいしてもダメなのだ。
今回、私は病になり、自己犠牲をしていた自分、自己虐待をしていた自分、自己卑下をしてきた自分、なんでもわかっている人を生きてきた自分、赦すことができる自分・・・とあらためて本音の本音の自分と向き合った。
病になったりや事故に合ったりや死ぬことも含め、自分を責めて罪悪感を感じることこそ奴隷意識なのだ。
ある意味、本来、光である私たちは低次の3次元世界に存在し続けるために、罪悪感を感じていないと留まれない。
ふしぎである、罪悪感を感じることで、3次元に留まることができるのだ。
こういうことを私は頭ではわかっていたのだが、ここから生まれる憎しみと言う復讐と自己虐待にあまりに慣れ過ぎていた。
何度もこれを赦そうとしても、また、すぐに挑発され怒りにまみれた。
怒ることや憎むことは仕方のないこと、そう思う自分を受け入れていたが、どこか吹っ切れない自分がいた。
私はこの自分の違和感にさらに深く入っていった。
そう、これは1999年映画マトリックスではないが「仮想現実」だとわかる。
この次元を俯瞰して観ていると、これは私が作っている世界とわかる。
何度もここを観ているのに、いつもリアルに感じるためにリアルだと思ってしまう
つまり、これは虚の世界、本当ではない。
私はもう半ば吐き気がするくらい、この世界に飽きている。
さんざんやりつくしたからだ。
この3次元を知りたくて、自分が作った虐待と裏切りのドラマ。
支配と破壊、権力と奴隷、男尊女卑のなんと激しいドラマだろうか!
映画の中のネオのように覚めてしまうといいのだ。
もう、終わっているんだ。
ただ手放したくなかったんだ。
だって、あんなにがんばって苦しんできたんだから。
しかし、病になったことで、強い罪悪感を意識し直すことができた。
自分を責め続けるなんてアホみたいだ。
そして、これを手放す方法がやっと見つかった。
そう、設定を変えることだ。
私は騙され裏切られる奴隷人間、あるいは、宗教的な生贄的なあり方をする人生から、
人からたっぷりと愛される素敵な人生に設定を変えていくことにする。
しかしだ、、、、言葉では簡単である。
この設定の変換(パラレルワールドの移行)は実は簡単なものではない。
私の場合に限るのかもしれないが、これは決して軽いものではなく、この次元の闇も光も地獄も天国もしっかりと味わい尽くしたからこそ、深く納得できる境地なのではないかと思っている。
表面をさらって、もっと楽にやっている人もいる?のかもしれないが、
それにしても、この次元はどう見てもかなり魅力的で依存するほどドラマティックなリアルワールドなのだ。