この重い塊こそ、人に好かれるためのものだった

ある時の瞑想中、なぜ私の目はこんなにも重いのだろうか?と問うている時、

 

一つ映像が見えてきた。

それは私の後頭部にある黒くて重い塊だった。

その塊は、これはダメ、あれがいいという私の中の古いルール(モラル)の塊だった。

ドカンと居座っている黒くて重い塊だった。

それに私は今まで気づけなかった。

慣れすぎていたからだ。

むしろこの重さこそ自分に必要なものだと思い込んでいたくらいだ。

 

しかしながら、これに気づくと頭(の後ろ)がこんなにも痛かったんだとわかった。 

この重いものの中に、ひょっとしたら多くの人のネガティブな想いも入っているのかもしれない。

それは邪気のような必要のないものだと思う。

こういう人にはこうしたらいい、その時はそれがいい、そうなったらこうやってみようなど、この世を生き抜くための処世術とでも言えるものだ。

それを基準にして私は行動を決めていたのだ。

人前で着る服の色も誰と何を話しどうつきあっていくかという言動も含めてだ。

そこのベースにあったものは・・・人に嫌われないように、迷惑をかけないように、争わないようにするためのものだった。

 

この長年積み重ねてきた処世術が今はまったく役に立たなくなっている。

だからこれに気づいて手放してくださいと体から警告を受けていたのだ。

私の目は悲鳴を上げていた。

もう今までの見方を変えてくれ~~~と。

 

そこで、これを取り去るにはどうしたらいいか?と考えてみる。

今まで長く続いた権力闘争社会であった地の時代において、サバイバル的なあり方や考え方は男尊女卑で育った私には必要なものだった。

それをやめるにはこのベースにある人に好かれたい、認められたい、嫌われたくない、争いたくないという想いを手放すことだ。

 

最近時々ブログで書いているように、正直になり自分の人生を生きることだ。

それは頭で計算することではない。

もっとハートを使うこと。

人や物事を頭で判断しない、外見で判断しないということになる。

頭でなくよりハートで、なんかそれいいなあというものを選ぶ。

へーそうなんだという、余裕やゆとりという体が緩むような状態である。 

これって、今までとはまったく違う体の使い方だ。

 

私の場合、ここ10年くらい、このサバイバル的な観念が役に立たずに悩んできたから手放す準備ができている。

また、この世の仕組みとまったく合わなかった人たちも、この風の時代の新しいあり方にシフトすることは難しくない。

しかし、この古い観念(人との上下意識)に問題がない人や、悩まないである程度うまくやってきた人はこのまま進んでいくことだろう。

まあ、人はそれぞれどう生きていくかは好きにしたらいい。

 

とにかく、私はこの塊の正体が見えたので、意欲的に(良いものだけを残し)後はすっきりと手放していくことになるだろう。

私の未来は、やっと軽く明るく、見えて、いくことになるだろう。