それは、母親としての嫌な役目だった

よくないとことだと思っていても、ついついやってしまうことがある。

私の場合、母親に言い過ぎることだった。

わかっているのに、やめられない。 

 

私の話を聞かないから、余計に説得しようとしてしまう。

真剣だからこそ誤記が強くなる。

あまりに適当でいい加減な母親についつい上から言ってしまう。

これはこうで。これだからと口うるさくなる。

昔から親子の立場がなぜか逆転していた。

必死に話しても、結局、言わなければ良かったと後悔する。

わかっているのに、やめられない。 

 

もう何年もこういうことの繰り返しで、もう飽きるくらいだ。

 

コロコロ変わる母親の言動に私は戸惑いながら大きくなった。

母親の変わる言動に、私は誤解をされないようにと、神経質になりしつこく説明するようになった。 

わかっているのにやめられない。

 

ある時、私は自分が素直にそう思ったんだから、こういう自分をもう責めないでおこうと開き直った。

 

そこで、♥このうんざりする繰り返しを何百回も何千回も体験しながら、私と(波動が)合わない相手とは決してわかり合えないということ。

♥違う生き方の相手を説得しても、絶対に変わらないということ。

さらに、♥どんなに努力して躍起になっても、合わない相手から認められ愛されることはないだろうということ。

それらを彼女を通して学んでいたことをやっと受け入れたのだ。

 

これは、人種差別や宗教の違い、性的な差別など、人類の平和の課題に共通しているものだ。

 

彼女は、私が人に依存しやすいところ、人に認められたい、人に愛されたいと期待するところを強制的に直してくれていたのだ。

彼女は私が人として自分自身を愛し受け入れ、しっかり自立へと進めるように、わざわざ嫌な役目を引き受けてくれていた。

長~い間、母親を通して私が「外側の誰かに依存するのではなく、誰よりも自分を丸ごと受け入れ愛すること」をこんなに時間をかけて学んできたのだ。

あ~彼女こそ、私にふさわしい母親だったんだなあ~。

母親とは、子どものために、嫌な役を引き受けている存在なのかもしれない。