人は矛盾している生き物だ。
好きと思っているのに、でも本当は大嫌い。
離れたいくらい嫌なのに、離れられない。
嫌いというより憎いのに、好きだと思うようにしている。
このような自分の中の矛盾があることにほとんどの人は気づいていない。
この矛盾に気づくことは人生において重要である。
自分の心に矛盾がなくなると、思ったように人生を変化させられるからだ。
しかし、自分の中に矛盾があるとそこにとらわれてしまい、どちらにも進めなくなり、結果、人生は停滞したままになる。
このことは私自身頭では分かっていたが、自分の矛盾に気づいても、一体どうしたらいいのか長い間わからなかった。
しかし、最近、すっきりと理解できたのでここでシェアしてみたい。
誰しも親から愛されて育ちたいものだ。
私は、今までの地の時代で生きてきた人類にとって、人を愛することは難しく、まして人に愛されたいと望んでも、愛されない方が普通なのかもしれないと思っている。
愛を知らないのは親や祖父母の世代である。
中には、ラッキーなことに先祖代々愛のある家系かもしれないが、ほとんどの家族は愛ではなく情というものがベースとなっているように見える。
よって、今でも愛を知らない人は少なくないように思うのは、私だけだろうか。
私もまた実際に子どもを産んで育てる時に、子どもに愛を感じない自分に驚き、親から愛を受け継いでいない、親にまったく愛されていなかったことに気づいた。
私は親から愛されていると思っていたのだ。
事実、私は親から愛されていない、私は愛を知らない・・・ということがわかりでショックを受けた。
と同時に、これは何とかしないといけないと、そこからスピリチュアルにのめり込んでいった。
それでも、愛について学ぶのは簡単ではなかった。
どうしたら子どもを愛することができるのか???
自分のことさえ嫌いなのに・・・。
まずは頭から入るしかなかった。
そして、時間をかけて自分の知りえる自分の過去を深くえぐった。
飽きるくらいに時間をかけてきた。
さて、私の中の一番の矛盾は
私をいじめ続けた祖母が憎い、私をかばわなかった両親が嫌い、実家のもめごとの元凶にされたこと、兄弟との差別(食べるもの~生き方の制限など)、兄や祖母のハラスメント・・・何度も見直し寛大な気持ちで許そうと思った。
ふしぎなことにである、それを許そうと思うえば思うほど、怒りが増幅するのだ。
愛したい・・・と同時に、殺したいほど憎い。
そんなのスピリチュアル的に言えば、愛ではない。
どうなの?と思いながら、私の実家への憎しみはどんどんと増幅していった。
母親と心底仲良くしたいのに、殺してやりたいというほどの憎しみが消えない。
この葛藤は疲れるほど味わった。
年老いた母親に暴言を吐きたくなる。
それは自分にとって辛いことだ。
私の中の光と闇が戦い、毎回、最後には自分を責める。
これは子どもの頃からあった変わらない負のパターンだ。
私が悪いことになる???という結末だ。
自分に罪をかぶせるのだ。
自分の中の矛盾、これはエンドレスだ。
私はいつここから浮上できるのだろうか?と長いこと悩んできた。
母親を好きだけど、実は好きなれない。
わかり合いたい、仲良く話したいと思っていても、結局、母親に嫌われていることがわかると怒って怒鳴ってしまう。
私と母親は人生に対する想いがまったく反対であるのだ。
まったく何も気にしないでのうのうとしていられる母親、それに比べて、感じすぎてしまう私。
親子なのに、仲良くできない。
母親は義祖母のことが大嫌いなのに、気に入られよう、仲良くしようとしていた。
本心とうわべを使い分ける。
母親の矛盾だ。
気の強い義祖母はその母親のウソの気遣いを見抜く。
そのために、母親はまたさらに義祖母に怒鳴られる。
そんなもめごとを私は4歳から観察してきて、女の嫉妬・劣等感・確執は絶対になんとしても嫌だと思って育った。
そして、私は幼い頃からいじめられている母親を何とかして助けたいと思ってもいた。
ところが、私の過去を観ながらわかったことは、いじめられいる母親にも計算が合ったということだった。
そのためなら、娘を裏切れる。
このからくりを知った時、私は絶句したが、いじめといじめられる構図はどちらの立場も利害関係(得する?こと)があるのだと学んだ。
おかげさまで、私は人を俯瞰して、物事を冷静に観られるようになった。
ここまで大変な修羅場劇場だったが、私はこうして泥んこになりながら生きていきてきたのだ。
さあ、あなたの中の矛盾はなんですか?