承認欲求・・・
今までの地の時代において、承認欲求を持っている人は少なくないと思う。
なぜなら、そんな余裕が親たちになかったからだ。
親に愛を求めても、生きるだけで精一杯だった。
食べるだけで必死だったのだ。
現在は子育てについての情報がたくさん転がっている時代だ。
それゆえに「毒親」という言葉で母親や父親が攻撃されている。
私の親も立派な毒親だった。
また、そういう親に育てられたので、当然、私も毒親になる可能性が大だった。
親になっても、その人の親が自分を愛さない、ケアしないで育ったなら、当然、その人は自分の子どもに愛を注ぐことは難しくなる。
また、自分に愛があると思っている人でも、形だけで真に親から愛されていないなら、20代30代と言えど親から受けていない愛をどうやって自分の中に見つけることができるのだろうか、そんなことは無理なことだ。
私は24歳で結婚し25歳で長女を産んだ時、自分に愛がないことに気づいて、、、がぐ然とした。
まさかこんなに頑張って生きてきたのに自分に愛がないなんて、なぜ???と思ったくらいショックだった。
愛って、頭ではわからないものだ。
長女が生まれているのに私は彼女に愛を感じることができなかった。
打ちひしがれた想いだった。
愛は頭で理解することができない。
愛は感じるものだから、生まれたばかりの娘を前にして、自分に愛がないことを。その時はっきりと自覚したのだ。
それだけでなく、私は自分自身にも愛を感じなかった。
そこからだ、私の愛の探究が始まったと言っても過言ではない。
しかも、娘たちを通してしか愛は学べないものだった。
まあ、私も毒親だったかもしれない。
愛のある母親になるとは簡単なことではない。
それでも、その時以来、必死で子育て・自分育てをやってきた。
子育てもうまく行ったりいかなかったり、泣いたり笑ったりしながら彼女たちを愛したいと強く願いながらいろいろと悪戦格闘してきた。
そして、その甲斐ありで思い切り関わったことで、私は少しずつ愛を感じながら子育てにいそしむことができた。
その満足感から、今どもたちへの執着から離れていくことができている。
だから、今悩んでいるお母さんたちに言いたい。
子育てを失敗してもいいから、体当たりして子どもに関わってほしい。
今しかないからだ。
過干渉かもしれないが、それでも、放任しているより親よりは断然いい。
迷いながらでいいから、試行錯誤自分の子育てをやっていけばいいのだ。
そして、子育てで育てられるのは、何と言っても親である自分自身だということ。
親が毒親と言われても、それはある意味し方のないこと。
育った家庭に愛がないのであればそれは自然なことだからだ。
以前にもブログでこのことについて書いたことがあるが、親になったからこそ、親自身が成長できるという話である。
子育てとは自分を進化成長させるにはとても良いチャンスである。
お母さんって最高!
つくづくやりがいのある仕事だと思う。
さて、ここを踏まえて、私のエネルギーの出し方に変化について話をしてみたい。
私は母親業を経て、人を何とか助けたいという気持ちから、15年くらいスピリチュアルを通して人生のアドバイスをやってきてそれなりの成果を得てきた。
ところが、この風の時代に入る頃に、私は大変大きなことにぶち当たった。
それはもう母親的な気持ちで「人は助けなくてもいい」ということを悟ったのだ。
(これについて誤解は避けたいので、私の場合ということでご了承いただきたい)
そのことにより今までの自分のエネルギー(直観)の使い方を大きく変えなくてはいけなくなった。
地の時代はそれはそれでよかったが、2020年12月22日のグレートコンジャクションの日に私は病だと診断を受けた。
まるで、私の魂がこれ以上この道を進むなと、ストップをかけてきたようだ。
それ以来、私の人生はリセット(強制終了)されてしまい、今は再生中である。
こうして、今までの人生のやり直しは体の見直しから始まった・・・。
(ここからの体のケアについてはブログでも時々書いているので省力する)
私にとって一番大きい変化は、今まで使っていたエネルギーの使い方の変更だった。
ここからわかったことは、
人はいくら人のために尽くしたいと思っても、外の世界への承認欲求がある限り、それは外の世界の人をなんとかしたい=私をわかって~=という周りの人をコントロールする気持ちがベースにあるということだ。
これは地の時代では普通なことであり。人であるならばこういうあり方は自然なことだったと思う。
これは上記の母親のあり方と同じである。
これからの時代、人の面倒をみるという(私の)母親的なアプローチは古いと言える。
そして、私はやっとエネルギーの新しい使い方(方向性)を見つけ出した。
風に時代に入りライトワーカーとして、私はひたすら内なる愛のエネルギーを放射していく人になることを決意したのである。