深刻な自分の矛盾に気づく時間を与えられて

このところ、人と会話をしていない。

それを自分が望んでいるかどうかわからないが、

とにかく、自分と長く濃密な時間を過ごしている。

 

そこで、私は自分の中にここから強く動いていきたい気持ちと、

その反対に、まったく動きたくないという気持ちが、混在していることに気づいた。

 

人は矛盾する生き物である。

 

好きなのに・・・嫌いという気持ちが共存する。

引っ越しをしたいのに・・・引っ越ししたくない。

行きたくないのに・・・なぜか行ってしまう。

やりたくないのに・・・やってしまう。

このように矛盾しているのだ。

 

私は病になったことで、この矛盾がたくさん私の中にあることに気づいた。

白内障に罹り、人をしっかりと見たいのに見えにくくなっている。

・・・というより、人を見たいのに・・・人を見たくないことに気づいた。

 

深層心理、私は人の闇をもう見たくないのかもしれない。

 

幼い頃から、道行く人が気になりひとりひとり、じっくりと見ていた子どもだった。

見えすぎて?困ったが、他の人もそんなものかもしれないと思っていた。

 

今までの仕事上、人の闇を深く見ている間に、関わりすぎて、人を助けられない自分に絶望してしまった。

クライアントの人生は自分の責任だと思いすぎていたのだ。

 

人間に自分になんども絶望してきた。

幼い頃から、私にはこういう傾向があった。

 

何度も周りの大人に裏切られると子どもはだんだん人が信じられなくなる。

それでも、私はなんとかそこに光を見出そうと、自分を奮い立たせて生き抜いてきた。

どん底だった私の人生を救ってきたスピリチュアルのあり方を人に教えたいと17年前に仕事を始めた。

この仕事は東京と神戸で口コミからどんどん広がっていった。

 

しかし、2011.3.11がやってくる前に、深いところで何かが起こると予感し、私は今までの仕事の方向性を変えたいと思った。

3.11後、札幌に移り住み、なんとか方向性を変えたいと願いながら以前と同じような仕事をなんとか続けていた。

 

ところが、昨年末に糖尿病と白内障に罹っていたことが発覚。

そのことにより、私が方向性を変えたいのに、変えられないこの矛盾と向き合うことになった。

  

幼い子どもは親に愛されたいもの。

親に好かれたいと切に願うものだ。。

だから、子どもは頑張っていい子になろうとする。

それが、私の中にもしっかりと根付いていた。

私は母親のいい娘であろうとし、娘たちのいい母親であろうとする。

社会から見ても良い社会人になろうとしてきた。

だからこそ、人を助けたいと思ってきた。

 

しかし、人を見たいのに、白内障に罹り、私はもう人の闇を見たくない。

人を助けたいのに、人(親)は私を裏切ってくる。

だから、人を見たくない、助けたくないとなっていた。

 

私は病になるほど、このことに、ほとほと疲れてしまったのだ。

 

糖尿病については、人生は甘くない、私はもっと頑張らなければ。。。

もっともっとと自分のハードルを上げ自分を律し厳しくあり続けてきたのだ。

 

 

♥本来なら・・・

子どもは親から、おまえはそのままで十分だよ。

他の人のようにならなくてもいいよ、

このまま生きていてくれるだけで、うれしいよ

・・・と言われたいものだ。

 

ミサエはそのままで十分に素晴らしいよと言われて育っていたなら、

私は充分に自分に満足して暮らしていたと思う。

スピリチュアルなんて学ぶこともなかったかもしれない。

私はこの病さえ罹らなかったと思う。

 

幼い頃から、人(弟や近所の子)の面倒を見れば、母親が認めてくれるだろうと思ってきた。

しかし、その甲斐空しく、どんなに頑張っても、義祖母は長男(兄)を溺愛し、母親は次男(弟)を思い通りにできる弟に夢中になった。

その頃から、妹であり姉である私が、兄弟より頑張ると何かと義祖母(間接的に母親)のいじめの対象になった。

あ~女の母性というものは、ある意味、恐ろしいものだと思う。

 

皮肉にも、今日までここに来てなお、この深刻な矛盾が自分に深く沁みついているのに気づき、

 

人の助けたいのに、助けたくない、

 

これでは、ライトワーカーとして、どうここを乗り切って仕事をしていくか???

 

この深い気づきを与えられた時間に感謝しながら・・・自問自答しているところである。