病について自分は自分をどう観ているのか?

例えば、医者からあなたが貧血だと言われたとする。

もし、とても気にしていたなら必死で鉄分をとろうとするだろう。

血が足らないからと言われたなら、そのことに、フォーカスして生きることになるかもしれない。

そうだ、鉄分のある食事をしようと、鉄分のあるものをたくさん食べようとして躍起になるかもしれない。

 

これについては何の問題はない。

ただ、心配のあまり・・・たくさん鉄分をとり過ぎて、かえって、体調を崩すことがある。

 

これをスピ的にどう受け止めたらいいのか?

何かが足らない、たとえば、自分のエネルギーについて足りていないのかな?

あるいは、病は幻想だから、どんなことを自分は作り出しているのだろうか?

 

♥こんな時、私ならどうするか?

自分の体の中の血液(ヘモグロビン)が足らないということは、マイナスなことだけど、しかし、これには何かのメリットがあるから、そうなっているのかもしれない。

 

あ~人に優しくされたいのかもなあ、だから、ちょうどいいかげんな自分を、どこかか弱く見せて大丈夫と言ってほしいのかも。

血が薄いの・・・へなっとなって見せたいのかも。

あるいは、自分には重要な何か欠けていて、完璧でないからと、自分を責めているのかな?

物質的に外から自分を埋めたい、何かもらいたいとも思っているのかな。

などと自問自答してみる。

 

これらのことから、ベースにあるのは、完璧でない、だから、完璧でいたいという想いがある。

完璧でないといけないという強迫観念がある・・・となると、

鉄分で補給しながらも、心の完璧主義をやめてみたらいいのではないかと私はそこに行きあたる。

 

また、自分が貧血になったことで学んだこともあるだろう。

鉄分のある食べ物を知る。

健康な暮らしを始める。

自分をいじめていたことに気づくなど、プラスのこともある。

 

 

♥さて、次に、それを自分の白内障に置き換えてみると、

その病がマイナスな中に、メリットになっていることは何か?

昨日のブログでも書いたが、周りの人のエネルギーを読んでいた私は人がはっきりと見えないことで楽になっている。

周りにどんな人が来ても、いちいち気にならないのだ。

見えないことで他人のエネルギーが読めなくなっているが。読まなくていいから私は疲れない。

このメリットは、私は疲れないから楽だということになる。

また、周りがよく見えないから自分のことにフォーカスしていられる。

周りを気にし過ぎていたから、見えにくくなり、私には良い機会になった。

 

しかしだ、こうなると周りはぼんやりとしてしまい、逆に人生が楽しめない。

 

昨年までの大きな学びとなっている、人を尊重することの学びがここで活かされてくる。

人の未熟さを観ても、間違いを観ても、結局、その人のあり方であるから、そっとしておけばいいと学んできている。

つまり、周りの人のエネルギーが見えても、そのまま尊重していれば、たとえ、目がよく見えるようになっても私は疲れないということになる。

心のあり方は周りの人はそのままでいい、そのまま尊重して、そのまま認めることだ。

だから、よく目が見えるようになっても、私は楽しいから、見えてもいい、OKということになる。

 

 (もちろん、人に人生についてどうしたらいいか?と尋ねられたら、以前のように力を入れて、どうしても、私の言うようにしてとか言わなくていい。ただ私は、宇宙から受け取ったメッセージをさらっと伝えればいいだけとなる)

 

スピの世界では、この世は自分がクリエイトしているから、病でさえ、自分で作っていると言われている。

だから、自分が何を作り出しているのかを、見直すことは大事なことだと思う。

もちろん、薬や手術は受けてもいい。その際、ポジティブな心でいるか、あるいは、ネガティブな心でいるかで、大きく結果は違ってくるだろう。

ポジティブな心になっていれば、体は良くなっていくのが、自然なエネルギーの流れ方だ。

 

★以上は、まったく個人的な私の見解ですから絶対ではありません。