親に尊重されないで育った子どもは、大人になってもこれを意識しない限り、親(異性)への怒りを包含している。
表立ってそんなことはないと思っている人でも、無意識のレベルで敵意を持っている。
長い間、親子の問題を見てきた私はそう思っている。
しかし、これはあくまで私の体験であり個人的な意見であり絶対ではない。
まあ、このブログが誰かのお役に立てればいいなという想いで私の体験を赤裸々に書いている。
さて、先日の小田急線の殺傷事件において、犯人の男性は若い女性を狙ったが、それは犯人の満たされない母親への複雑な想いが原因となっているように思う。
この男性の母親への複雑な想いとは?
母親に押さえつけられてこの男性に自由がないというより、母親に甘やかされ彼に何か何か不都合なことが起こるたびに母親がそれを受け入れていたのではないだろうか。
お母さんがなんでもしてくれ、困ったら僕の責任を取ってくれるから、他の女性もそうあるべきだろと思っていたのではないだろうか。
母親は僕の怒りを受けていれる、だから他の女性もそうであるべきだと考えてしまった。
これは何も特別なことではないと思っている。
母親は息子に対して一人前の男性としてではなく、いつまでも私がなんとかしてあげないとダメな息子だと思いたい。
母親は優しくしてくれるいい息子でいてねという暗黙のプレッシャーをかけていないだろうか。
いい息子でいようとするがいつまでも母親に認めてもらえないという不満をどこかにを持っていないだろうか。
薬を使って女性をレイプした事件や大学のサークルで行われていた女性に対する悪質ないたずらやハリウッドなど芸能界で行われてきた女性への性暴力など、日に日に明るみに出てきて実際に裁判沙汰になっている。
なぜ、女性を大切にできないのだろうか。
なぜ女性に暴力をふるうのだろうか。
こうして、夫や男性から大事にされない女性は・・・やがて息子を自分の味方にして無意識に支配してしまうのだ。
ここで母親が子どもへの支配に気づかないと、いい子の息子は女性に敵意を抱くようになる。
自分でも気づいていないかもしれないが女性に怒りを感じている男性は少なくないように思う。
これは、反対に娘の母親であった私自身にも言える。
私は娘たちを自分の味方にしようとしていたのだ。
元夫への不満があったのだ。
それは無意識にやっていたことだ。
母親になった人ならわかるかもしれない。
良い母親であろうとするればするほど、良い子どもにしようと一生懸命になって子どもを育てる。
母親は自分のことより子どものことを思うものだ。
私の場合、娘たちはヨーロッパで育ちで、欧米の個人主義の教育の影響を受けいているため自分たちの意見を貫くように教育を受けている。
よって、私は余計にしっかりしようと母として頑張っていたが、娘たちはどんどん強くなり私と激しくやり合うようになっていった。
ありがたいことに、彼女たちは自分を貫いてくれたことで、私は折れることができ、依存していた彼女たちから離れることができた。
もう母役はいらないというところまできた。
思いきりやってきた私は娘たちはもう何も心配ないとわかり私の役目は終わったのだ。
母親とはいったん自分の体に子どもを取り込み、それを大事に育て上げ、そして、子どもは蹴って出て行くのだ。
なんと偉大な仕事だろう。
一旦、依存させて、そして、旅立っていくのだ。
また、私は自分の母親との共依存の問題も抱えていたので、娘たちとの依存の問題があることもよくわかっていたために、サンドイッチ状態になり、どちらともうまくいかなくなり、かなりきつい状態であったが親子が離れるためには良かったのだ。
母親の娘の立場と、娘の母親として立場の両方をよく見ることだできたからだ。
私は自分と母親、自分と娘という、親子の距離や境界をどう作っていったらいいかまったくわからなかったが、親子のテーマを、長くクライアントの近親相姦や近親憎悪なども学び、わかるようになってきた。
今の私は身内とか他人とかではなく、人は毛局人類愛なんだと思えるようになっている。
やっとこの年齢になり、私は自分なりの人類愛でいいのだという答えを見つけ出したのだ。。
次回も親子シリーズが続きます。
お楽しみに。