私が生きる上で一番難しいことは人との距離だった。
育った環境において人(自分)の境界を重んじるということがなかったからだ。
特に男尊女卑という風潮がある中では女子の個人としての権利はない。
日本では家族の中での個としての線引きは曖昧になる。
なあなあという、一見親しいような感覚だ。
欧米のように個人主義ではなく、全体主義というか、家族という単位が基本になるために個という概念ははっきりしていない。
まあ、これは私の年代のことだけかもしれないが。
過去においてヨーロッパに住み、個人という単位が守られているとはこういうことかと実体験した私は、個人という単位において、自分が普通に大事にされたことに居心地の良さを感じた。
男尊女卑でしかも上下の関係を持つ家族の中では女と子どもの個としての領域は守られにくい。
古風な日本風な情けを重んじる社会において、親子間でクールな距離を取ることは難しい。
良い親は・・・子どもを思うあまり、ずけずけ子どもの領域に入り、いろいろと世話を焼く。
一生懸命愛するがあまり、子どものとの距離がわからなくなってしまう。
そんな私も同じように、ついつい子どもや人にやり過ぎてきた。
親切心からのお節介だ。
そのたびに、娘たちから大反発をくらい、反省するに至るという繰り返し。
まあ、それが母親なんだけど、それだからこそ、気難しい子どもの面倒が見られるのであるが。
大きくなれば、親を踏み台にして子どもは勝手に飛び立っていってしまうという、なかなか損な役回りだ。
まあ、その分、子育てを楽しめるので、プラスマイナス少しプラスだから、良しとしたい。
そこで、私は自分が娘の立場と母親の立場となり、そして、スピリチュアル的な私の魂のテーマ「他人と身内は同じで、究極、人類愛なんだ」を重ねた結果、身内も他人も・・・結果同じなんだという意識に至ったのである。
風の時代の始まりによる人の意識の変化の中、私もまた大きな意識の変化を体験している。
以前に理想に思えていた「身内も他人もみな人類」という意識状態に近くなっている。
人はみな同じ人類だと言う意識なら、当然、すべての存在は同じ個としてそれぞれに尊重される。
そこで、ここから人(自分)の領域の話になる。
私は身内家族と他人家族の両方を体験してきた。
みなさんの中で、身内でも愛を感じないために、両親を遠くに感じている人はいるだろう。
また、他人の中で育てられてた人でも、尊重されて育った人は自分に満足している人もいるだろう。
身内や他人に関わらず、人から認められて育った人は自己肯定感が高く幸福感が高い。
幼い子どもの私は義祖父母を自分の本当の祖父母と思っていた。
義祖母は私を常に「あんたは他人だから」と口癖のように言っていた。
子どもとはそばに居る人を愛しているもんなんだなあと自分を通して思った。
だから里子でも養子でも、子どもは育ての親(周りの人)を身内のように愛しているのだ。
他人だから・・・と決めるのは大人の方なのである。
私にとっての人(自分)の領域とは、みな同じ距離を取ることに尽きる。
よって、この体験から他人家族をベースにコミニティーを作りたいと望んでいる。
それが私の人生を通してテーマの成果だからだ。
身内とも他人も同じ距離でいい。
他人だって身内にように愛し合える。
我々はただただ地球に住む人類なんだ。
みんな違ってそれでいい。
同じ気持ちがあれば一緒に居られる。
たとえ身内でも生き方が違えば一緒に居られないし、それでいいのだ。
心のあり方が似ているメンバーで同じ建物に助け合って住み、さらに、そこを風通してよくするためにオープンにし。ホテル経営につなげたい
私が学んできているのは、
あなたが身内だからといって、親や子どもと考え方が根本的に合わないのに、親子だからと無理してずーっと仲良くしなくてもいいということ。
また、他人だからいって、身内のように愛し合えないと悩まなくていいということ。
自分の距離、自分の領域をまずは大切にしてほしい!
♥私たちはそろそろ大人になり、みな魂として生き始める時が来ていると感じています。
それこそが違いを否定しないで生きられる唯一の平和になる方法だと思っています。