どんな時も自分に主導権を持つこと

ヨーロッパに住んだこともあり、すべてにおいて自分がYESかNOをはっきりさせることの心地よさを知った。

こちらの質問などに対して、日本ではなんでもいい、とか、どちらでもいい、あるいは、なんのリアクションもないという返事を返してくる人がいる。

一体どちらなのかな?

いいのか嫌なのかな?

一体何がほしいのかな?

はっきりしない答え聞いていると、、、その場をうまく逃げられて楽なのだろか。 

こちらはイラ~っとする。

まあ、それは仕方がない文化だから。

ただ、自分の気持ちをはっきりさせていかないと、何がしたいのか頭の中がなかなか整理できない。

 

私は自分の血糖値の数値を調べるためにクリニックに時々通っている。

治療について、私は自分の意見をはっきり言うようにしている。

医者はすぐに薬をすすめてくる。

私は数値が下がってきているので、まだ、薬は避けたいので、様子を見たいと言う。

医者は驚く、やりにくい患者なのか、そんなことを言う患者はあまりいないのだろうか?

 

欧米では患者の意思をまずは尊重してくれる。

このクリニックの女医さんは強引に患者に上から語り始めた。

医者はこういうやり方で常に患者に接しているのだとわかった。

威圧的だから弱い患者はそれに従ってしまうのかもしれない。

 

私は病でも心は健康だ。

そして、私の身体は私に責任がある。

だから、私は自分で決めることができる。

医者に責任はない。

 

この女医さんは頑張っている患者を励ましたりほめたりしない。

人はほめられるともっとやる気なったり元気にするのにと思いながら、私は医者に「その薬は強制的ですか?」と尋ねた。

彼女はこんなことを言う患者がいないんのか、一瞬ひるんだ。

そこから、この女医さんの態度が軟化した。

難しい患者だと思ったのだろう。

しかし、この時、何回か脅されながらも、やっと、私は自分に主導権を握ったのだ。

 

なんでもそうだが被害者の態度だと、どうしても弱くなる。

病でも、事故っても、失敗しても、貧乏でも、鬱でも、引きこもりでも、ハンディーがあっても、自分の存在価値とは何も関係がない。

罪悪感を持つことはないのだ。

自分を責めることもないのだ。

そして、被害者でもない。

ただ、今その状態になっているだけということだ。

本人の価値とは関係ないのだ。

 

私自身、健康でないことに、、、はじめは自分を責めていたが、すぐにそれは違うと思うようになった。

すべて自己責任であるが、どうしようもないことは起こるものだ。

そこに自分が学ぶものがあるだけだ。

人にいちいち指図されたり、可愛そうだと言われたくもない。

本人が一番大変なんだから。周りの人は優しく見守るのがいい。

また、本人の強さを観ることも思いやりだ。

 

私は今すっかり健康体のような気分で暮らしている。