明日(9月26日)までがお彼岸の期間であるためか、先祖供養についてミサエ独特の視点から考察してみたい。
私の父親が養子であったために実家の先祖とは血が繋がっていない。
また、あまりに家族が冷えた関係だったので、実家の先祖に対して温かい想いはない。
後妻の義祖母も義祖父にまったく愛されてはいなかっし、
父親も義祖父に対して感謝こそすれ何も愛を感じていない。
こうなると血縁関係がなく心がない形だけ先祖供養に何の意味があるのかと私は常々疑問を持っていた。
形だけでもいい母親は何も問題を感じないようだ。
しかし、形だけ供養されても先祖の方々は満足するのだろうか?
私が先祖なら形だけ祈られてもとても嫌なことだ。
血縁関係のある父親の実家とは義祖父母が禁止したことで疎遠になっていた。
義祖父母の死後、少しずつつながりを取りはじめ、おかげで本当の実家の方に亡き父の葬式に参列してもらうことができた。
母方の実家はもちろん母親の本当の血縁関係である。
つまり、私の先祖は、
1.父方の実家
2.母方実家
3.生まれ育った実家
以上、3つある。
さて、先祖供養について見せられた夢がある。
~~私は自分が良く通っていた実家の近くの道路を、なぜかはいつくばって雑巾がけをしながら掃除をしていた。
そこに、白い服を着た弱弱しい母親が現れ、その道路の交差点のところに立った。
かわいそうに見えたので、私は家に帰ろうか?と言うと、もう戻らないと言う。
そこで、私はこの交差点近くの橋のたもとから風に吹かれたいなあと想い、一緒に船に乗ろうと思った~~ところで目が覚めた。
(実はこの橋には苦い想い出がある。中学生の時、この橋から飛び込んで死んだら楽だろうなあと何度も思った橋である)
夢の中で、その船に乗ったのは私かだけか、母親も一緒かどうかははっきりしない。
しかし、私は今まで、実家の掃除(浄化)をしていたのだ。
そして、それが今回母親と共に終わったんだとわかった。
思わず実家に対して、今までありがとう!と手を合わせた。
私にとって実家の問題が完了したのだ。
そこから、先祖供養というものについてさらに深く考えてみた。
魂はこの地球で生まれた体(父方と母方のDNAという情報を含める)を借りて生きていると考えている。
以前テレビで見た情報であるが、先祖とは大きく見えれば血縁あるなしに関わらず元をどんどんとたどっていくと、アフリカの黒人に行きつくらしい。
また、ある海外のテレビで人種も宗教も住むところも全く違う人たちを集め、DNAを調べて言ったら、みんな繋がっていたという事実を観て、人を区分して差別しているなんてばかばかしいと思った。
私にとっての先祖とは!
つまり、今ここにいる私そのものだということだ。
私のこの手、この足、この髪、この顔、、、すべてが父方母方からもっと言えば先祖(地球)からのもの。
そうであるなら、先祖供養とは先祖で詰まっている「この体そのものを大事にすること」に尽きる。
お彼岸でお墓に行くのもいいが、
それより、まずは先祖そのものである「自分」をいたわり感謝することだと思う。
それが、お墓参りより大事なことではないか。
私はこの基本中の基本である私が「ここに今いることのすばらしさ」をわかっていなかったのだ。
体は魂の神殿であると言われている。
体はこの地球で生きられる乗り物であるが、先祖からの愛のエネルギー(情報)の賜物である。
これがわかって、
このお彼岸に、先祖になってしまった亡き弟のことを思いながら、私は自分の体についていっそう感謝するようになった。
さらに、両親の想いがどうあれ、私が今ここにいることに、うみ出してくれた両親に感謝しかない。
ありがとう、父母、そして、ご先祖様~!