私の中の罪悪感まみれの古い男性性との決別

昭和の時代は、海辺でサーフィンをしている男性を見守り海からあがってくるまでずーっと待っている女性がいたという、

しかし、10代20代でそんな女性はほとんどいない。

 

①女性が男性に尽くすのが普通ということに慣れている男性と、

⓶女性が簡単に男性の言いなりにならないことをわかっている男性

の違いがここにある。

 

育った環境の影響は大きい。

自分の両親のあり方を観ればそれはすぐにわかる。

どちらの感覚が強いだろうか?

 

私は今60代後半であるが、無意識にこの年代以上の男性には、

女性を男性より価値が低い、

女性は男性を立てるもの、

女性はおしとやかな方が良い

という意識を少なからず持っている。

 

たとえ、スピリチュアルなことをしている60代以上の男性たちの中にも、

この意識が存在していると、何度も感じることがある。

これは残念ながら、私の中にもある

昭和の時代、当時の女性のあり方はテレビ・ラジオ・映画においても、男性に尽くす女性を良しとしていた。

昭和のほとんどの男性は日本を代表する素敵な女性に吉永小百合がいいと思っているいうことは皆が承知していることだ。

つまり、とても人気があるのだ。

 

面白いことに、ほとんど海外で育った私の娘たち(現40代前半)は、この吉永小百合の良さがまったくわからないと言う。

当時、小学生くらいだった次女は紅白で観た研ナオコが個性的でいいと言ったいたくらいだった。

つまり、欧米では女性は個性的であればあるほどいい。

どこにもいないその女性がいいのだ。

エッジがたっているくらいの女性に、フランス人の男性などは魅力を感じるようだ。

 

日本では平均的でまあまあほどほどいい女が、昭和の時代の男性には好まれる。

個性的で強い女性はあまり好かれない。

 

これからの日本女性はどうなっていくのだろうか?

自分らしく生きていきたいという方向に進んでいくと思うが、ひょっとしたら、あまり変わらないかもしれないが、どう変化していくか楽しみである。

 

まあ、他の人のことより、まずは自分のことだ。

今、私は古い男性性とさよならをしている。

私は両親にとって、ほどほどの良い娘では決してなく、いろいろなことを起こした独創的な娘であった。

とりわけ、内向的な父親がそんな私を嫌がっていた。

そこに私は罪悪感を強く抱いていた。

つまり、独創的で目立つ自分を申し訳ないと思っていた。

そして、そんな父親に怒りも感じていた。

 

私は進歩的に進む自分を極力抑えながら、私を受け入れない父親に怒り感じ続けていたのだ。

 

しかし、私の魂は、今、この罪悪感と怒りまみれの古い男性性を認め、離れていくようにと伝えてきている。

その証拠に、私の右半身はうずいている。

右半身の状態が良くない。

 

もうこの怒りを手放さないと私はダメになる。

 

本当に興味深いことだが、人は嫌いなのに好き、離れたいのに離れられないという矛盾を持っている。

ダメとわかっていてもやめられない。

それが執着、依存である。

怒りに依存しているのだ。

自分を痛めつけるために深酒をするようなものだ。

痛みに依存している。

とても自虐的なのだ。

 

 

昭和という時代に受けた男尊女卑、、、それはそれでもういいのだ。

勝手にして~。

 

しかし、私は腐ってしまっているへその緒を断ち切り、そこから立ち去ることにする。

たとえ、戻りそうになって怒っても、また。これを意識してして進んでいこうと思う。

ありがとう!昭和の・・・