人を羨ましく思うことはない

あなたは宇宙でただ一つの存在だから。

 

私が育った昭和という時代は、常に周りを意識して生きるような世界だった。

知らず知らずのうちに、周りの人を意識して学校でも会社でも、がんばる人になっていた。

テレビや雑誌など、誰が素敵だとか、かっこいいとか、どこの大学が優秀だとか、という情報にあふれていた。

今思えば、このファッションが流行っているからこれを着ないとダサいとか、体型はこのモデルやタレントさんみたいに痩せていた方がいいとか、情報は常に自分と周りを比較し劣等感を抱かせるような洗脳の嵐だったように思う。

ニンジンを目の前にぶら下げられた馬のように、ここがゴールだぞーと走らされ、競争して駆け抜けたのが昭和の時代だったように思う。

ある意味、劣等感の情熱を掻き立てられ、走ってきたのかもしれない。

しかし、私は途中でその流れに順応するのが嫌で、今から30年以上前にスピリチュアルというものにハマっていった。

スピリチュアルと言っても私の場合は、常に自由な立ち位置にいた。

スピリチュアル=自由で柔軟な考えくらいに思っていた。

ところが、この仕事をはじめた15年前くらいは、私にそれって宗教?って聞いてくる人は少なくなかった。

怪しい~~~と思われていたのだ。

失礼だなあと思いながらも、言い返すこともしなかった。

当時、物質主義の真っただ中、見えない世界の話なんて、、、信じる人の方が少ない。

そんな中でも私はぶれずに、今でもこの見えない世界を信じる(感じる)スタンスは変わらない。

 

私はスピリチュアルなものをいろいろと学び、私なりに役立ったものを自分に落とし込んで形にしたものを人に伝えてきた。

私はこの作業をアートだと思っている。

人生は自由に表現していくものだからだ。

ただし、そこに自然界の仕組みや宇宙意識というものが存在している。

というか、いくら自由に生きてもこの自然界を超えらないのだ。

 

さて、話を戻すと、

昭和の時代だけでなく、今でも他人と比較して生きている人は少なくないと思う。

周りの人と常に比べて生きている人は、自分の視点(意識)が常に、外に向いている状態である。

この状態から、自分(らしさ)を生きる道を見つけることは難しい。

自分の意識を内側に向ける以外、自分を生きられないのだ。

これは私自身の体験からそう思うのだ。

 

自分が人にどう思われているか?

素敵に見えているか?

匂いはどうか?

変な人に見えていないか?

今日の服装はどう見られるか?

体型はこれでいいか、お腹は出ていないか?

周りに不快感を与えていないか?

学歴がないが相手に受け入れられるだろうか?

ちゃんとやっているように見えているかどうか?

こうして自分は自分にダメ出しばかりしてきた。

 

何も気にならない人がいるかもしれないが、私にはそれができなかった。

今でもそういう部分はある。

しかし、今は過去の自分に比べより自分に寄り添っている。

最近、私が6歳の頃、父親が写してくれた写真を思い出し、この少女が今の自分からは遠くにあり、また、彼女がいかに難しい時期をひとりでよくがんばって生きていたかを、あらためて味わった。

あ~抱きしめてやりたい。

あのいじめによく耐えたね、よくやったねと。

自分に寄り添えるのは自分しかいない。

もう離れないぞ、一緒だよと抱きしめている。

 

今の私は自分のために、清潔できれいでいたい。

ニコニコ笑っていたい。

自分をほめている。

自分の好きな服装をしている。

かっこいい私と勝手に思って満足している。

 

自分を受け入れると、あとのことはあまり気にならなくなる。

世の中が間違っているとか、こうあったらいいとは強く思わなくなる。

まずは自分を充足させ自分に満足していたい。

貧乏でもお金持ちでも、成功してもしなくても、家があってもなくても、背が高くても高くなくても、色が白くても白くなくても、顔にしわがあってもなくても、流行がどうあれなんでもいいのだ。

宇宙で、地球で、他にはいない自分がここにいるのだから。

 

いずれみんな死ぬことになる。

だからこそ、好きに生きたらいいんだ。 

と今なら思える。

まあ、次の私は何を思っているかわからないが(笑)

 

♥誰かのインスタグラムの動画にハワイの透き通った海の中、亀が優雅に泳いでいるのを観て羨ましいなあと思った。

自分はこんなに簡単に何かを羨ましいと思うもんだなあと自分にあきれる。

それに、私はもはや人間ではなく、亀?を羨ましく思ったのだ。

どこまもで、何かを羨ましく思うものだ。

それでも、私はこの世で唯一無二の存在だということも忘れない。