私のアセンション物語~人を魂として見る~

自分のあり方が変わると雰囲気が変わり今までとは違う人みたいに見える。

このキャラを変える過程はとても楽しい。

古い自分の殻を内側から砕いて外に出るような爽快感がある。

もう役に立たない習慣や考え方や常識を壊す。

良しとされていた常識も時代と共に変わる。

制限されていた中でみんながそれがいいという考えやあり方も役に立たなくなっていく。

しかし、今まで固く閉ざされた殻から出ていくのは、なかなか至難の業である。

 

 

制限や枠を超えていくことは今まで守られていた規則を破ることになる。

世の中が乱れてしまうかもしれない。

枠の中にいる人には枠を超えていく人のことが危険に見えるかもしれない。

 

家族の形もまた大きく変化している。

親せきつき合いは希薄なっている。

互いに助け合ってきた近所付き合いなども、今はほとんど意味がないものになっている。

人と人が以前に比べて希薄な関係になっている。

お嫁さんという立場も薄くなっていて夫の母親に会いに行く必要がないと言う人もいる。

何がいいのか悪いのか、まったくわからなくなっていく。

まとまっていた人の基準が変わっていくのが今である。

 

私は、もう年だからそんなことはしないとか、女だからそれはできないとかなど、何々だからと意味づけをしないで、一つの存在、魂として、自由に生きていこうと思っている。

しかし、古い刷り込みはいつも私をそんなことしたらダメだと押しとどめようとする。

こんなことして人にどう思われるのか気にする私がいる。

今のアセンションの時期、自分の殻を破るのに勇気がいる。

前に進むことに躊躇する自分、できない自分を責める習慣も残っている。

あ~完璧じゃあないんだと思いながら、それが人間なんだと慰める。

一歩一歩と歩んでいくしかない。

それでも一歩でも前に進めばいいのだ。

その気持ちこそが大事なことなんだ。

 

私の目の調子が良くない、頭を使いすぎて視神経を使いすぎたからか「ミサエよ、人の見方・社会の見方を今こそ変えておくれ」と私の体と魂は思っているのだ。

そこで、思い至ったのが、、、そうだ人を魂として見ること。

人にレッテルを貼るのをやめる。

気づくと、かわいそうだとか、偉い人だとか、高齢者だからとか、病人だから、障害を持っているからとか、独身とか、金持ちや貧乏とか、若くて素敵な人だからと簡単にレッテル貼りをしている。

人を魂として見るのだ。

動物も、植物も、都市も国も、存在そのものとして見る。

そこに比較はない。

そんな新しい見方をやってみたら、今までの世界とはまったく違う世界に見える。

 

東京に言った時、電車に乗り座席に座った。

右となりの男の子の座り方が肩を落として携帯でゲームをしている。

なんだか気になり若くてきれいな女性がいる左側にひとつずれた。

私は少し安心した矢先、、、そのおとなしそうな女性は大きな袋から化粧道具を出しどんどん化粧をはじめた。

化し粧品から出ている強烈な匂いを振りまきながら、私はあ~席を間違えてしまったと気づいた。

男の子の隣に居たらよかったんだ。

私は人を外見で判断してしまった。

おとなしそうな女性という外見の思い込みで判断を間違えたのだ。

 

この女性は恥ずかしげもなく臭いにおいを振りまき平気でいる。

この若くでおしゃれ見える女性は公共のマナーを知らないで大きくなったようだ。

欧米では考えらない行為だ。

恥ずかしいというのは日本人の美徳ではなかったのだろうか?

恥ずかしいとは自分を律する心の強さだと思っている。

もう日本では公共のマナーなんてことを誰も言わないし、注意もしない。

それが自由なのかもしれない。

私は付き合う相手を間違えたくないと思う。

 

そうだ、人や物を魂や存在そのものとして見る練習をしよっと!