自分に起きている症状(変化)は過去を手放すためのもの

昨年秋あたりから目が乾いていたのを気にしないようにしていたので、今年になり眼科に行き、目の炎症で視力が落ちてしまっていた。

 

このことで、コロナの後押しもあり、今までの仕事のあり方やり方(見え方)を変えた。

 

そして、今私の意識(視点)は外側から内向きになっている。

このHPでも「外の世界には何もない、内側にしか私はいない」と提唱している。

以前、何度も外の何か、偉大な本や有名な人や、確かな教えとか人のあり方をとかを激しく求めてきたが、そこには少しの影響あるものの、私自身が求めるものはなかった。

もういい加減にしなさいと、私の導きは呆れていたかもしれない。

私は外の世界にまだ何かあると思い、導きの注意を無視していたので、私の目は見えにくくなっていったのだ。

しかし、ずーっと過去の亡霊から逃げることができなかった。

そこに私の学び、知りたいことがあるからと関わっていたのだ。

やめたくてもやめられないというようなアディクト、依存的なエネルギーである。

もうやめなくてはと思ってもなかなか離れることはできなかった。

執着とはカルマであり、過去の清算していないものである。

中毒になっているものだ。

おそらくこの波動の低い3次元に生きる人はみな自分の精神的・肉体的に何かの中毒あると思う。

何も中毒がない人は3次元からの卒業をしていると思う。

 

そう、私の目はおかしくなって私に警告をしていた。

もう内向きになってくれ、もはや外に行っても何もないよ。

まだやるの!と。

それは知っていたことでもあった。

しかし、なかなか思い切ることができなかった。

導きを信じ切ることができなかったのだ。

 

人の体というのはコンピューターのごとく正確に反応する。

魂の成長のためには病にもなる。

私が自分の道からそれていたなら自分の道に戻すために不具合を起こす。

この症状が痛いからこそ、気づくのだ。

あ~自分を大事にしてきたつもりなのに、私は幼い頃のサバイバル的なあり方を続けようとした。

親から愛されないと感じた子どもは幼い時に周りの人に気に入られようと、無理な態度を身に着ける。

良い娘、聞き分けのいい子、しっかりもののお姉さんだからなど、自分でない自分を演じるようになり、大人になってもこのあり方がなかなかやめられない。

 

私も、大人人なっても、瞑想やスピリチュアルなことを学んでも、自分のサバイナル的なあり方から卒業できなかった。

 

人はそんなに立派でも優秀でもないと思っている。

人はどこかバランスの悪いのが人間だと、この頃、特にそう思うようになった。

 

まあ、やっとこの3次元のネガティブワールドからの撤退を自覚でき、

導きと体に感謝しながら、ものすごく解放感を感じている。

ここにきて私・・・2極化というより、多様性、多極化、そして、多次元世界に生きることになっていくんだと見据えている。