不自由を学んで本当の自由を知る

できないことはできるようにしなければいけない。

できないことをそのままにしておいてはいけない。

努力しないとダメだ。

やれるまで頑張るんだ。

しかし、、、できないことや苦手なことはどんなにがんばってもうまくいかない。

長続きはしない。

そして、悲しいかな毎回自分に失望をする。

劣等感ばかりが増していく、なんて自分はダメな人間なんだろう・・・かと落ち込む。

 

私もまじめに取り組んできたが、苦手なことはなかなかうまくできない。

帳簿付けやお金儲けを考えることは今でも苦手である。

苦手なことは時間がかかる。

儲けを計算しても計算しなくても、私の仕事はそのことに関係ないかのように動いてきた。

 

日本の教育は間違っているのではないだろうか。

子どもの苦手な部分を克服させようと教育しまんべんなく何でもできる子どもにしようとしてきた。

それが良い教育だったのだ。

今、時代は個人の特性を尊重する方向へと進んでいる。

私が受けた教育は人より目立ってはいけない。

周りに合わせてみんなと同じように行動しなさいと育てられた。

みんなと一緒に、兵隊さんのように一糸乱れず1・2・1・2とよく歩かされたものだ。

 

これからの個性化の時代を思うと、超マイペースの私は今まで周りに合わせて目立たないように必死で自分を抑えてきたが、それは無駄だったように思う。

しかし、自分が周りから目立たないようにして生きるとはどういうことかを知るために、この時期を選んできたとも言える。

人は反対のことを学んでより深く理解できるのか、深刻な不自由さを体験しないと自由の良さはわからないということだろう。

 

また、私は人に世話になったことについていつまでも義理立てをしているという無意識のプレッシャーを自分課していることにも気づいた。

もう相手とは終わっている関係なのに、未だに悪いなあと思っていることに気づいた。

これが罪意識である。

意外と多くの人が持っている無意識の感情ではないだろうか。

これには早く気づく方がいい。

親や兄弟姉妹や身内などにも持っているかもしれない。

例えば、私は別れた元夫にも負い目を感じていた。

こちらから離婚を申し出たからだ。

だから、一人を貫いてきたともいえる。

これは意味のない義理立てである。

無意識に私自身が自分に罪を感じたくないゆえの行いかもしれない。

 

罪の意識を一つ思い出してくると、後からこれもあれもと出てくる。

それに気づいていくと、どんどん体は軽くなっていく。

こうやって、すべての過去を終わらせている。

 

あ~他に何か心と体に残しているものはないのかな~~~と意識しまくりの今である。

もうそろそろ素敵なパートナーを自分に許してもいいなあと思いながら・・・。