ある子どもは親から愛されていないのに、親から愛されている思いたい。
ある女性はつきあう男性からまったく大切にされないが、それを認めたない。
好かれているはずと思いたい。
しかし、嫌われているように感じる。
嫌われているのに一緒にいる。
相手に蔑まれているかもしれないと思わないようしている。
矛盾を感じながらも一緒にいる方を選ぶ。
我慢するのだ。
それが世間的にもいいことだからだ。
本人はそれが幼い頃からの、人との関係、となっているのに気づいていない。
ほんとは、、、おかしいなと気づいているのに。
妻は夫に愛されていないのに・・・愛されていると思いたい。
だから、嫌なことをされても、浮気をされても我慢する。
ほんとは怒りまくって別れてやると内心思っても、別れられない。
いい妻だから許すのだと言い聞かせる。
ほんとは相手に好かれていない、愛されていない。
これを読んでイラっとするかもしれないが、こういう人は自分のことが好きでない。
自分を好きだったら、好かれていない相手に執着することはなく、こういう相手を引き寄せて付き合うこともない。
私は過去の自分の中に、また、他人の中にこのような「矛盾した想い」を多く見てきた。
正直に生きる。
素直に生きることは容易ではない。
両親は私を嫌いとは言わない。
彼らは絶対に私を嫌いとは言わない。
なぜなら、母親であり父親だからだ。
しかし、私はかなりの本音をぶつけている。
彼らは本音をつく私が苦手でだから、幼い私を何度も裏切ったのだ。
それを好きだと言われたら、今の私は怒り心頭になる。
いっそ、そうだよ、お前を嫌いだよと言われたら、私は矛盾を感じない。
心から納得するだろう。
父は養子だったせいか祖父に遠慮していた。
祖父に不満を言うことはなかった。
自分の気持ちを始終我慢していた。
だから、父は常に嘘のような曖昧さを漂わせていた。
母も義祖母(祖父の二人目の妻)にさんざん大きな声でお前はダメだと人前で罵倒されても義祖母の最期までかしずいていた。
大嫌いなはずなのに、嫌いと言えない。
私には不満だらけの母の矛盾、迎合して生きている姿に心を痛めて育った。
神様の計らいで?私は13年もヨーロッパで生活をしたが、自ずとYESとNOをはっきりと言う習慣が身につき、何が好きで何が嫌いか、何が居心地が良いか悪いかがわかるようになった。
おかげで日本に帰国してから、はっきりとNO という私は周りの人に反発を食らった。
曖昧さを求められる日本社会のあり方に、また慣れていかなくてはいけなかった。
しかし、このコロナ後の新しい時代になり、今こそ私はより素直に生きることができる。
NOはNO でいいのだ。
もはや我慢は美徳でもなく、
我慢は人の心をひねくれさせる。
人の心がひねくれると、他人に嫌味を言うようになる。
そして、意地悪な人になっていく。
もうスピリチュアルなグルや教師はいらない時代になる。
カリスマもワンマン社長もお局も。
成功しなくても、競争しなくてもいい。
自分を生きる、自分を信じて生きる。
自分を慈しみ、周りと楽しんで生きる。
過去を癒して、自分にご苦労さんと言おう。
そして、素直な人たちを引き寄せて一緒に遊びたい。
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