厳寒の夜、温かい浴槽に気持ちよく浸かっていた私はふと、私がマリア様だったら???という問いが浮かんだ。
あれ~っ、これって何?
私、こんな立派な人を目指していたの?
どこかで自分はダメだから、もっと立派な人にならなくてはいけないと無意識に思っていたのだ。
事実、私は進む道に迷った時、マリア様ならどうするかな?と常に問うていた。
神様なら、イエスならどう進むか?などとやっていた。
子ども頃から周りに手本にできるような大人がいなかったせいか確かな存在、尊敬できる大人を求めていた。
よって、無意識的により頼りになる存在に向かっていったのだ。
自分の人生を思い切り生きようと思い始めていたこともあり、その浴槽の中で・・・
私はあ~もう立派な人にならなくていいのだ、ただ自分になればいいだけだと突然わかったのである。
そうなると、今までの人生なんだったのかしら?無駄だったのかしら?
あ~それが、3次元世界だったんだ。
宗教的に刷り込まれていたのか、スピリチュアル的にも無償の愛を・・・など言われてきた。
そこで、私は視点を高くして、この3次元世界を眺めて見た。
そうか、ある意味、人類にはそれが必要だったのかもしれない。
まだまだ人間が成熟していない時代、原始的で戦いばかりやっていたために、そういう崇高なるを存在をシンボルにして一つにまとめていく仕組みが必要だったのかもしれない。
民が乱れることを怒れての策だったのだろうか。
その仕組みによって、人は愛や憎しみを学ぶことができた。
長い間、この仕組みのおかげで、人は従順になってしまい、いつしか自分を忘れていったのではないだろうか。
★断っておくが、私はどの宗教も批判する意図はない、あくまで私の個人的な見解である。
そう私は私だ、私はマリア様ではないのだ。
人をなんとしても愛さなくてはとか、赦さなくてはいけないとか無理しなくていいのだ。
私なりに人を愛することも赦すことも学んできている。
嫌な人を無理に好きになろうとしなくてもいいのだ。
今まで立派な人にならなくては・・・という自分で作り上げた幻想の中で苦しんでもいた。
浴槽の中でそのことに気づき。やっとその重い幻想を解き放つことができた。
その瞬間。気楽な自分に戻ることができた。
このように人が自我忘却や自己喪失の中において、自分を取り戻すために、私のように病から自分へのメッセージを受け取り自分を見つけたり、今回のように浴槽中で自分で作り上げた幻想を見つけ手放しているように、現在、ある種の人たちは自分軸で生きるために、自分自身を取り戻そうとしていると思われる。
しかし、そのことで、自分のことがよくわからない、自分は何をしたらいいのかわかないと悩んでいる人は少なくない。
そういう人のために・・・次回は、いかに日本で親が子どもを抑えつけ、その子どもはどうなっていくかを書いてみたい。
また、いかにしたら子どもを抑えないで自己を確立できるように育てられるかについて説明してみたい。
さらに、自己の感覚の取り戻し方についても伝えてみたい。
♥もちろん、これはあくまで私個人の体験からの意見であるので、何かの参考程度にしていただければ幸いです。